みなさんこんにちは。
見届けておりますでしょうか。
成田市民です。
「消滅した井戸」として芝山湧水の里をご紹介しました。
今回はその続きと更なる深掘りになります。
千葉県山武郡芝山町菱田の辺田(へた)。
成田空港のすぐ東側にあった集落です。
今では跡形もなく空き地が広がっている場所ですが
過去の地図を確認すると多くの家が立ち並んでいたことが分かり
今回はこの辺田集落が存在した場所に焦点を当て
第三滑走路新設により姿を変える前のこの場所の一次記録を残したいと思います。

成田空港第三滑走路に関する関連記事はこちらからもお読みいただけます。


実際にこれから消えていく現地に伺い
空港に姿を変える前のこの2020年代の一次記録となれば幸いです。
辺田(へた)集落について
Google マップ上でピンを刺している場所となります。
空港が生まれるよりも大昔から存在した集落となります。
この辺一帯の始まり自体が奈良時代との記載も「辺田地区集団移転之碑」にございましたので一部抜粋します。
辺田地区の歴史は古く、奈良時代(西暦708〜714)和銅年中行基菩薩が日本巡回の途中石造りの舟が❝石舟❞に到着、一夜にして藥師尊像を彫刻し、瑠璃光山藥王寺の本尊として納められた。
年歴を経て天正十年(西歴1582)仏の場所を改め、ここを東と言う。と総州山室譜伝記に記述があり、尚小字清水より道普請により石灯籠の擬宝珠が出土している。
又鎮守大六天の森、面足神社の末社に現存する板碑慰霊塔に南北朝時代の年号貞和二年(西歴1346)が刻まれている。(足利朝年号)
国家社会を二分する激動の中でも、部落の民は力をあわせ、板碑を建立し小字清水に藥王寺、小字辺田に吉祥院、小字宝池に竜泉院の三寺院を築造し世の平和を祈願して来た。この重みは感じないわけにはゆかない。
この地区の家は皆裏山に横突きした清水によって家庭用水を賄って居たことも特筆すべきものである。
このような穏やかな生活の上に昭和四十一年七月四日、空港建設が閣議決定なされた。
現地の様子 – 2026年9月


2026年9月某日、今はなき湧水の里が存在した場所に訪れます。
滞在している間は人も車も通らず
数分に一度のペースで飛行機の音だけが爆音で響き渡ります。
すぐ上の写真の右側に見えづらいのですがピンクのリボンが付いた杭が刺されており
その場所が過去に湧き水が出ていた場所でした。

※上記画像をタップすると詳しく解説した過去記事に飛べます。

湧水の里を背にした風景
目の前の田はもう耕されていません。
草が伸びかけた田にピンク色のリボンを結んだ杭が何本も立っていました。
開発目前の様子です。

道と土地の間に塀の跡のようなものが残っている場所もあり家があったことを感じさせます。

成田国際空港株式会社が取得した土地であることを示す看板は前回より増えているように見えました。
成田ではよく見かけるNAAの看板です。
第三滑走路の土地収用が思うようにうまくいっておらず
ついに2026年12月にも土地収用法に基づく事業認定が申請される見通しだというニュースもありました。
成田空港自体反対運動が激化し死者も多数出ていることもあり
強制収用というやりかたは半世紀以上成田ではタブーとされていましたが国家プロジェクトを優先させる流れですね。

過去の強制収用時の映像がYouTubeで残っておりましたので貼ります。
今の若い人はほとんど知らないのではないでしょうか。
私も成田に移り住んだ数年間は何も知りませんでした。

すでに奥の方では第三滑走路新設に向け工事が進んでいます。
成田空港の歴史は非常に複雑で
二元論だけで語れるようなものではありません。
当ブログでは中立の立場を取っておりますので
あくまで現状のありのままを不動産の視点から解説することに徹したいと思います。
近隣に集落のお寺があるようですので向かいます。



辺田集落の人々に信仰されていた真言宗の吉祥院を訪れます。
本堂は雨戸が閉まり人の気配は全くありません。




それでも境内は掃かれていて所々にお花が供えられていました。
誰かが定期的に管理をしている証拠です。
敷地内に地元の方々の物と思われるお墓があることも一つの理由かと思います。

世界中の人が消えてしまったのではないかと思うほど静かだけど常に飛行機の轟音が響き渡る不思議な場所です。成田周辺には騒特法の絡みで一度家を解体すると再建築できない仕組みになっていたり集団移転をしたりして一つずつ集落が消えていきます。
成田周辺の空港の特殊事情についての記事は下記からもお読みいただけます。



航空写真でたどる消えた集落の60年
国土地理院の航空写真を元に同じ場所がどのようにして変わっていったのかを解説します。
赤丸はどの年代も同じ地点(湧水の里)です。
一枚ずつ詳しく見ていきます。

空港の建設地が決まる3年前です。
白黒の為分かりにくいですが
分かれ道に沿って家が並び谷の底には細かく区切られた田が広がっています。

開港の翌年である1979年。
集落の形はまだそのまま残っています。

屋根の数は、1963年とほとんど変わりません。
今となっては跡形もない風景ですが確実に人の営みがあったことが分かります。

90年代もまだ家は建っています。

赤丸のまわりの家がすべて消えています。
この集落だけピンポイントで消えてしまっています。
別記事で書きたいと思いますが集団移転が行われました。
国土地理院には2000年代初頭の成田エリアの航空写真がなく過程の様子はわからないのですが
徐々に移転しこの場所には最終的には誰もいなくなってしまったようです。

2014年
田の区画は残っていますが、住む人の気配はありません。
もう人が住むような場所ではなくなってしまいました。

2020年代
田の一部も耕されなくなり緑に戻り始めています。
1992年までの写真に存在した家たちが
2010年の写真ではなくなっています。
この18年のあいだに集落は移転しました。
時系列で並べると下記の通りです。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1963年 | 航空写真に集落が写る(空港計画の前) |
| 1966年 | 新空港の建設地が三里塚・芝山に決まる |
| 1971年10月1日 | 辺田の青年・三ノ宮文男氏が22歳で亡くなる |
| 1978年5月 | 成田空港が開港 |
| 1992年 | 航空写真ではまだ家が確認できる |
| 1997年 | 反対同盟側の資料に「辺田部落の住民が集団移転」 |
| 1999年10月 | 空港会社の記録に「芝山町菱田地区 13戸」の集団移転 |
| 2002年 | B滑走路(当時2,180m)が供用開始 |
| 2003年 | 跡地を当時の新東京国際空港公団が取得したとされる |
| 2010年 | 航空写真から家が消える |
| 2011年 | 集団移転が完了(辺田地区集団移転之碑より) |
| 2025年3月31日 | 芝山湧水の里が廃止、設備撤去 |
| 2026年9月 | 田は耕作されず、杭が並ぶ |

私は初めてこの場所を訪れた時強烈な違和感と言いますか、自然の中ではあるのですが人工的な跡が複数見られる、でも人の気配も廃墟も一切存在しない、そんな不思議な感覚を抱いておりましたがやはり集団移転で集落ごとこの場所から消え去ってしまったようです。
辺田と三里塚闘争

芝山町の農家は成田側の農家と一緒に
「三里塚芝山連合空港反対同盟」をつくり空港の建設に反対しました。
反対同盟の青年行動隊にいた三ノ宮文男氏はこの辺田の方でした。
研究者の論評には「辺田部落の年若い隣人」と書かれています。
1971年9月の第二次強制代執行の直後
10月1日に22歳で亡くなりました。
両親にあてた遺書の一節「空港をこの地にもってきたものをにくむ」は
三里塚闘争を語るときに今も引かれる言葉です。
過去記事では三里塚闘争および三ノ宮文男氏の遺書の全文も掲載しております。
これは空港に関わる方には特に一度読んでいただければ幸いです。
空港のまわりは飛行機の音の大きさに応じて区域が決められています。
音が大きく住むのに向かない区域では
国や空港会社が家や土地を買い取り引っ越しの費用を補償します。
騒防法と騒特法という2つの法律にもとづく制度で
成田空港では1976年1月から行われています。
成田国際空港株式会社が公表している集団移転の記録のうち
芝山町の分は次のとおりです。
| 時期 | 地区 | 戸数 |
|---|---|---|
| 1993年10月 | 芝山町菱田中郷地区 | 10戸 |
| 1996年4月 | 芝山町大里加茂地区 | 11戸 |
| 1998年12月 | 芝山町大里住母家地区 | 9戸 |
| 1999年10月 | 芝山町菱田地区 | 13戸 |
| 2002年9月 | 芝山町芝山地区 | 11戸 |
※成田国際空港株式会社「移転補償等」より芝山町分を抜粋
反対同盟の歴史をまとめた資料には
「辺田部落の住民も1997年に集団移転した」とあります。
また冒頭でご紹介した辺田地区集団移転之碑には「平成二十三年をもって移転が終った」と刻まれています。
1997年頃に移転が始まり、1999年10月に13戸が集団移転し、2011年に移転が完了した流れと考えられます。

過去に記事にした別の地区もそうですが集落ごと移転して現在は成田エリアの別の場所で生活を営まれているパターンも少なくありません。成田市内の土地の名義を見ていくと元々のルーツが芝山にあることも多く、成田には代替地が多数存在します。
芝山湧水の里 – 2025年3月31日に廃止

芝山町の案内では「こんこんと湧き出る澄みきった清水」と紹介され
2024年5月21日にも、水道法にもとづく12項目の水質検査が行われていました。
台地に刻まれた小さな谷(谷津)の底は、もともと湧き水が出やすい地形です。
前回の記事でも書いたとおり
この土地は平成15年(2003年)に当時の新東京国際空港公団が取得したとされています。
芝山町のページには現在こう書かれています。
「芝山湧水の里は令和7年3月31日をもって、施設廃止となり、設置設備は撤去となっております」
水に恵まれたこの場所もこの数年で形を変えます。

昔から住み続けてきた土地を渡さなくてはいけない。それぞれの家にもそれぞれの事情があり決して簡単なお話ではありません。この国の経済成長にとっては必要な存在かもしれませんがその人達の人生を変えてしまった。これは絶対に忘れてはいけない事実です。つぶされた水源を見つめているとそのことを再認識します。
まとめ
芝山湧水の里があった場所は、菱田の辺田集落でした。
今回再度この場所を特集したきっかけとしては
成田市内のとある事業用地を調べていた際に所有者の住所がこの辺田集落のとある区画となっており
そもそもここに所有者住所として登記できる建物があったということから過去を遡るきっかけとなりました。
私自身、空港の恩恵を頂いてきた側の人間ですが
成田空港というものが多くの犠牲の上に成り立っていることは決して忘れてはいけません。
家が消え始めたのは1990年代後半。
航空機の騒音による集団移転で、2011年に移転が完了しました。
跡地に残った湧き水も2025年3月31日に廃止されました。
成田空港はある日突然できたわけではありません。
60年かけて周辺エリアの形を変えてきました。
今まさに第二の開港と言われるさなかです。
これはこの場所に限らず街中の建物や土地もそうですが
物理的にその場所が変わると人の記憶から消えやすくなってしまいます。
人間、忘れてしまう生き物です。
だからこそ記録として残していくことが当ブログの一つの役割であると考えております。
本日もありがとうございました。


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