みなさんこんにちは。
運気アゲアゲでしょうか。
成田市民です。
成田の方であれば、一度は渡ったことがあるのではないでしょうか。
京成成田駅の東側、市役所通りをまたぐ朱色の欄干の小さな橋。
その名も「開運橋」。

いかにも成田にふさわしい雰囲気の橋ですね。
本日はこの開運橋の歴史、そして橋のたもとに建つ「開運ビル」についての記事となります。

寿司、そば、焼き鳥、沖縄料理、イタリアン、麻雀。
袖看板がずらりと縦に並ぶ、駅前の坂の途中の雑居ビルです。
成田の駅前で飲んだことがある方なら、このビルのお店で一杯やったことがある方も多いかと思います。
残念ながら2026年10月現在
灯りがついているお店はほとんどありません。
そしてこのビルの名前の由来を調べていくと
90年前の食堂と橋の下にあった池に行きつきました。
この記事では
・開運ビルの基本情報
・「開運橋」を架けたのは駅前の食堂の主人だった
・橋の下にあった池(養魚場)
・土地と建物、それぞれの持ち主の移り変わり
・懐かしのテナント一覧
・開運ビルのこれから
以上について解説致します。
開運ビル 基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 開運ビル |
| 所在地 | 千葉県成田市花崎町736番地51ほか |
| 場所 | 京成成田駅・JR成田駅の東側、市役所通りのカーブ沿い(開運橋のたもと) |
| 建物 | 鉄筋コンクリート造。登記上は5階建て(5階は屋上の階段室のみ) |
| 延べ床面積 | 約2,068㎡ |
| 完成 | 1978年(昭和53年)8月31日 |
| 建てた会社 | 成田観光自動車株式会社(1953年設立の貸切バス会社。2007年に京成電鉄に合併) |
| 現在の所有者 | 地元の不動産会社 |
| 現在のテナント | 地下のNew Club DIORAのみ営業しているようです(2026年10月時点) |


駅から歩いてすぐのコンクリの塊のようなこの物件。70年代の建物の重厚感を感じます。地元の方は特に思い出が多い方が多いのではないでしょうか。ビル独特の雰囲気もあり大人が来る場所、お子様向けではないのは確かです。
名前の由来は「開運橋」|とある食堂の主人が私財で架けた成田山への近道
まずは”開運”という名前の話からです。
ビルのすぐ脇、市役所通りの上をまたいでいる朱色の橋が「開運橋」です。

そもそもなぜここに橋が架かっており名前が開運橋なのか。
物事には基本的に因果や理由が存在します。
成田の郷土写真集にこの橋の成り立ちが載っていました。

要約すると、こういうお話です。
京成電車で成田に着いた参詣客は
いったん国鉄駅前の大通りに出て、右に曲がって成田山へ向かっていました。
今でいう京成成田駅を背にして
日高屋の角の部分を右に曲がりそのまま参道に入っていく道ですね。
その不便さに目をつけたのが、このエリアで食堂を営んでいた主人でした。
昭和9〜10年(1934〜35年)ごろ
京成駅前の右手の窪地に橋を架けて成田山への近道をつくり
これを「開運橋」と名づけます。
さらにこの道を通るお客さんを当て込んで
町側の台地に舞台作りの「開運食堂」を建てました。
新しく橋を架けて道を生み出すというのは非常にダイナミックな発想で私も見習うべき部分がございます。
戦前の人物名鑑にもこの橋は食堂の主人が独力で私財を投じて架けたものと紹介されていました。
主人は駅前で食堂と売店も営む敏腕の経営者でした。
橋をつくって人の流れを変えそのたもとに店を出す。
90年前にこれを個人でやってのけたわけです。
街の構造をそもそも変えるという発想が完全にディベロッパーです。
橋はその後、二度架け替えられています。

上記は80年代ごろの開運橋の写真ですがどことなく街がギラギラしていますね。
現在の独歩のところは「81クラブ」というお店だったようです。
別の写真集によると橋の歴史はこうなります。
| 代 | 時期 | 姿 |
|---|---|---|
| 初代 | 昭和9〜10年(1934〜35年)ごろ | 丸太を組んだだけの木の橋 |
| 二代目 | 昭和30年(1955年)ごろ | 朱塗りで五条大橋のように擬宝珠(ぎぼし)が付いた橋 |
| 三代目 | 昭和52年(1977年) | コンクリートの橋。駅前から国道51号へ抜ける道路(いまの市役所通り)の開通と同時に架けられたもの |
いま私たちが渡っているのは、この三代目ということになります。




よく見ると、いまの橋の欄干の柱にも擬宝珠がちゃんと付いています。
擬宝珠は、橋の欄干の柱の先につける玉ねぎのような形の飾りです。
コンクリートになっても、二代目の朱色と擬宝珠の姿を引き継いだのかもしれません(ここは私の推測です)。

橋を渡って北へ延びるこの路地が、90年前の「成田山近道」というわけです。

橋の名前が食堂の名前になり、そしてビルの名前になりました。90年前に食堂の主人がつけた名前が、形を変えながら駅前に残り続けているのはすごいことですね。その方へのリスペクトがあったのかと思います。
開運橋の下には池があった|開運食堂の養魚場

写真集にはもう1枚、昭和11年(1936年)の写真が載っていました。
正面の木の橋が開運橋、その右側の舞台作りの建物が開運食堂です。
橋の左側が京成駅前になります。
初代の「丸太を組んだだけの木の橋」というのはまさにこの姿ですね。
「成田山近道」の宣伝で京成で来た参詣客はこぞってこの道を使い食堂は繁盛したそうです。
主人は新鮮な川魚料理を出すために橋の下に養魚場をつくりました。
写真の手前に写っている水面がそれです。
ただ、食堂は戦後に閉店。
池もやがて埋め立てられ食堂を買い取った成田観光のバス駐車場になったと書かれていました。
駅前のど真ん中に川魚を泳がせる池。
今の姿からは全く想像できません。
池はどこにあったのか
国土地理院の空中写真で、この場所の移り変わりを見比べてみます。
赤丸がいまの開運ビルのおおよその場所です。

1974年
まだ市役所通りはなくいまの駐車場のあたりに大型のバスがずらりと並んでいます。
※そもそも今のマックの横から市役所に抜ける道は存在しませんでした。
近日こちらについても詳しい記事を公開予定です。

1979年
南側に市役所通りが通りその脇に開運ビルが完成しています。
バスの姿はなくなり駐車場には乗用車が並んでいます。
登記を取ってみると、ビルの前の市役所通りの部分は、1977年に成田市が買い取って道路にした土地でした。
元のビルの敷地の、およそ半分にあたります。
法務局で明治時代の地図をもとにした古い公図を確認したところ
この一帯の当時の地名は「成田字牛作(うしさく)」。
ビルが建つ斜面は山林や畑でその東側の谷の底は田んぼになっていました。
過去の資料にも開運橋から眺める東和田の田園風景はとても良かったとあります。
国土地理院の地図で高さの断面を見てみると
地面はビルの西の端から駐車場の東の端に向かってぐっと下がっています。
※別記事の元りそな銀行のビルもそうですが成田駅前の建物は高低差を利用して建築されているものが多いです。
台地のすそに入り込んだ谷のいちばん奥。
そこに橋が架かりその下に池があったわけです。

ここからは推測の域にはなってしまうのですが
現在の開運ビルの駐車場敷地から現在の市役所通りの一部が池だったのではないでしょうか。
74年の写真にも大量のバスが駐車されており過去資料の成田観光株式会社のバスの駐車場になったという記述と一致します。

そして池の水はどこから来ていたのか。
残念ながらここは記録が見つかりませんでした。
古い公図にも水路の線は描かれていません。
成田駅前は台地の上にあり、台地にしみ込んだ雨水は谷のすそからしみ出してきます。
谷の奥にあたるこの場所にもそうした湧き水やしみ出した水が集まっていたのではないでしょうか(ここは私の推測です)。
開運食堂や池のことを覚えている方、ご家族から聞いたことがある方がいらっしゃれば
池の水がどこから来ていたのか、いつごろ埋め立てられたのかを教えていただけますと幸いです。

駅前に川魚を養殖する池があったなんて今の姿からは全く想像できません。地形をフル活用されていたことは間違いなく、当時の土地利用という面では非常にセンスのある形だったのではないでしょうか。成田駅周辺には水辺が少ないため見てみたい光景でした。
土地と建物の持ち主|食堂の会社から京成、バス会社、そして地元の会社へ
ここからは少し文字が多くなりますので
歴史が気になる方のみお付き合いください。
登記を取ってみると、土地と建物で、それぞれ違う物語が見えてきました。
土地|食堂の会社から京成電鉄へ
この土地は戦前は個人の方の持ち物で、1956年に「株式会社開運食堂」の名義になりました。
そして1960年、この土地を京成電鉄が買いました。
写真集には「食堂を買収した成田観光」とありましたが
登記を取った上で厳密に言うと食堂の会社から土地を買っていたのは京成電鉄だったのです。
その12年後の1972年
京成電鉄からこの土地を買ったのが「成田観光自動車株式会社」です。
古いバス会社の名鑑を見てみると
成田観光自動車は花崎町に本社を置く貸切バスの会社で
しっかり「京成グループ」と書かれていました。

京成が買った食堂の土地が、グループのバス会社に移ったという流れです。
写真集の、成田観光が食堂を買収したという書き方も、大きく見れば外れてはいないのかもしれません。
余談ですが、1972年の登記では、成田観光自動車の本店もこの区画(成田市成田736番地)にありました。
1974年4月に地名の表記が「成田字牛作」から「花崎町」に変わり
1977年12月には、本店が同じ花崎町の804番地1へ移っています。
成田観光自動車という会社
ここで、ビルを建てた成田観光自動車について、会社の登記(閉鎖された登記簿)も取ってみました。
成田観光自動車株式会社ができたのは、昭和28年(1953年)11月9日。
本店は成田市花崎町804番地1、資本金は2,000万円です。
京成電鉄が食堂の土地を買う7年前から
すでに存在した会社ということになります。
ちなみに写真集では「成田観光株式会社」と書かれていましたが
正式な名前は「成田観光自動車株式会社」でした。
登記に書かれている会社の目的(どんな事業をする会社か)がこちらです。
| 番号 | 会社の目的(登記の記載のまま) |
|---|---|
| 1 | 一般貸切旅客運送業 |
| 2 | 旅行業に関する業務 |
| 3 | 土地建物の売買及び賃貸借 |
| 4 | 物品販売業 |
| 5 | 物品預り業 |
| 6 | 遊技場(パチンコ じやん球 スマートボール)の経営 |
| 7 | 上記に附帯する一切の業務 |
1つ目の「一般貸切旅客運送業」は、いわゆる貸切の観光バスのことです。
団体のバスを走らせ、旅行を手配し、物を売り、荷物を預かり、土地と建物を貸す。
成田山へお参りに来る人たちを相手にした商売が、ひとつの会社に詰め込まれているように見えます。
そして6つ目。
パチンコ、じゃん球、スマートボールの経営。
じゃん球は麻雀とパチンコを合わせたような遊技、スマートボールは盤の上で玉を転がして穴に入れる昔ながらの遊技です。


開運ビルの地下には「開運パチンコ」が入っていました。
当時を知る方からお話を伺うと今のパチンコ屋のような空間ではなく
天井が低く、常にタバコの煙がモクモクと当時らしい光景が広がっていたようです。
この会社が自分でパチンコ店を経営していたのかどうかは、登記からは分かりません。
ただ、ビルの持ち主の会社の目的に最初からパチンコが書かれていたというのは、なかなか興味深いところです。

もう一つ。
開運ビルの北隣に建つ、ツタに覆われた建物。
登記を見ると1968年に建った「寄宿舎」で、こちらも成田観光自動車の名義になっていました。
バス会社の寄宿舎なので、運転手さんやバスガイドさんたちの寮だったのではないでしょうか。
いまはツタに飲み込まれ、フェンスで囲われています。
1999年にビルと土地を同じ京成グループの京成興業に移したあとも、会社そのものは残っていました。
そして2007年4月1日、成田観光自動車は京成電鉄に合併されて解散しています。
会社ができてから53年あまり。
最後は京成電鉄に吸収される形で、その名前は登記簿から消えました。
いつから京成グループの会社だったのかは、この登記からは分かりませんでした。
ビルの敷地|半分が市役所通りになった
ビルの敷地は1972年9月に大きな土地から切り分けられた約1,215㎡の土地です。
1977年、そのうち約620㎡を成田市が買い取り、道路にしました。
これがいまのビルの前の市役所通りです。
残った約595㎡の土地に、翌年ビルが建ちます。
土地の半分を道路に出して、残りの半分に、新しい道路に面したビルを建てる。
不動産屋の目線で見ると、とても理にかなった流れに見えます。
建物|空港開港の3か月後に完成
開運ビルの完成は1978年(昭和53年)8月31日。
成田空港の開港が同じ年の5月20日なので、そのおよそ3か月後です。
鉄筋コンクリート造で、登記の上では5階建て。
ただし5階は屋上の階段室だけなので、実際は4階建ての建物です。
延べ床面積は約2,068㎡になります。
最初の持ち主として建物を登記したのは成田観光自動車でした。
この開運ビルを建てたのは成田観光自動車だったのですね。
開運という名前を使ったのは開運橋の隣に位置するのも勿論ですが
開運食堂に対しての敬意も含まれていたのではないでしょうか※私の勝手な推測です。
過去の所有者一覧
建物と土地、それぞれの持ち主を表にまとめます。
| 年 | 建物(開運ビル)の持ち主 |
|---|---|
| 1978年 | 成田観光自動車(新築) |
| 1999年 | 京成興業(京成グループ) |
| 2007年 | 京成電鉄(京成興業を合併) |
| 2021年 | 大和情報サービス(大和ハウスグループ。同年に大和ハウスリアルティマネジメントへ社名変更) |
| 2024年 | 地元の不動産会社 |
※成田観光自動車そのものも、2007年4月1日に京成電鉄に合併されています。
| 年 | 土地(駐車場の736番29)の持ち主 |
|---|---|
| 1956年 | 株式会社開運食堂 |
| 1960年 | 京成電鉄 |
| 1972年 | 成田観光自動車 |
| 1999年 | 京成興業 |
| 2007年 | 京成電鉄(京成興業を合併) |
| 2021年 | 大和情報サービス |
| 2024年 | 地元の不動産会社 |
※駐車場の土地の2007年・2021年は、ビルとひとまとめで売買されている登記からの読み取りです。
なぜ京成グループがずっと持ち続けてきた駅前の一等地を、2021年に手放したのか。
売却はちょうどコロナ禍の時期にあたり、京成電鉄はそのころ2021年3月期の連結決算で262億円の最終赤字になる見通しを出していました。
私の記憶では、そのころにはすでに4階部分のテナントが撤退しており
収益的にもあまりよろしくなかったのかもしれません。
売却先は、商業施設の賃貸や運営を手がける大和ハウスグループの大和情報サービスでした。
もしかしたらこの一帯で、ホテルなどの活用を考えていたのかもしれませんが
建物の古さや、テナントさんとの調整の大変さなどもあり、4年足らずで手放したのではないでしょうか(ここは私の推測です)。
最終的に地元の不動産会社へ渡っており、今後の動向が気になってしょうがないです。

このような一等地を大手企業が手放すなんて基本的には無いお話かと思いますが、なにかしらの理由が無いとこの動きにはならないかと思います。今後の動きはどうなるか私は知りません。
懐かしのテナント一覧|パチンコ、寿司、そば、焼き鳥、夜のお店
ここからはこのビルで飲んだことがある方には懐かしいお話です。
図書館で住宅地図を何年か分見比べ、いまの看板と合わせてまとめてみました。
※時間の都合上80年代の物しか取れておらず順次更新済予定です。
| フロア | 1980年代ごろの住宅地図(数版分) | 2026年10月の看板など |
|---|---|---|
| 地下(B1・B2) | 開運パチンコ→パチンコカイザー、ゴールデン新世界(USA)、バニーガールクラブ | New Club DIORA |
| 路地側の1階 | 江戸っ子寿司、そば ふじや開運橋店、やきとり ごんべえ(ごんべい)、ニュー青山、スタジオ110、スナック開運84、㈱成田ジャパンビレッジ | 寿司 江戸っ子、そば処 ふじや 開運橋店、酒処やきとり じんべえ、沖縄料理 琉球むら、イタリア料理 カンパーニャ、からあげ・ハイボール ワイルドチキン、麻雀 |
| 上の階 | 成田航空大学校 | New Walker・hill club |
| 駐車場側 | — | 旬彩じらいや |
※店名・階の表記は資料と看板のままです。住宅地図は版によって階の呼び方がずれています。




路地側の1階は、寿司、そば、焼き鳥の飲食店街。
江戸っ子寿司、ふじや、焼き鳥屋さんは、1980年代の住宅地図にも、いまの看板にも名前があります。
沖縄料理の琉球むらの店先には「浪漫ヴィレッジ成田へ移転します!」「4/25オープン」の貼り紙が残っていました。
浪漫ヴィレッジさんをまだちゃんと体験できていないため、
琉球むらさんへも行ってみたいと思います。
昔、成田で初めてできた友達と琉球むらさんで
海ブドウとハブ酒と頂いた楽しい思い出が今も私には残っています。
江戸っ子寿司 開運店さんは新しい場所で営業されており
先日お世話になりましたがお店の方には非常に丁寧かつ優しく接していただき
最高の気分でおいしくお魚を頂きました。ありがとうございました。






地下はパチンコ屋さんと大人向けの夜のお店の階でした。
開運パチンコからパチンコカイザーへ、ゴールデン新世界、バニーガールクラブ。
ペンギン村やパチンコ屋さんを覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ランジェリーパブが入っていたと地元の方からも伺いました。
このビルで色々完結しそうでなんて楽しそうなんでしょうか。
このビルには、まだまだ書ききれない思い出話がたくさんありそうです。
当時のこのビルを知る方がいらっしゃれば、懐かしいお話をぜひ聞かせてください。
ちなみに、ビルは坂の途中に建っているので
上の路地側から見た1階と、下の市役所通り側から見た1階がずれています。
登記では地下のない建物ですがお店は「B1」と名乗っている。
住宅地図の版によって階の呼び方がずれているのもそのせいだと思われます。
上の階には「成田航空大学校」という事務所も入っていました。
空港の街らしい名前です。
1階に入っていた「㈱成田ジャパンビレッジ」も気になる名前です。
昭和の終わりの成田には、同じ名前の大きなプロジェクトが成田空港付近で持ち上がっていました。
こちらはまた別の記事で詳しくご紹介致します。



地下はパチンコと夜の店、路地側は寿司とそばと焼き鳥、上の階には航空の学校。昭和の駅前の雑居ビルのお手本のような顔ぶれです。空港の開港景気の中で、駅前に人がどれだけあふれていたのかが伝わってきます。今の成田には無い活気が私はとてもうらやましく感じます。今の成田の夜の街はどんどん衰退していると個人的に感じております。
開運ビルのこれから

2026年10月の時点で営業を続けているのは、地下のNew Club DIORAのみのようです。
以前何度か付き添い程度で行かせて頂きましたが
成田の駅前の中でも広い店内となりラグジュアリーな空間だったのではないでしょうか。
ほかのお店はシャッターが下りたままになっています。
駐車場側の階段の前には、こんなお知らせが出ていました。


建物老朽化により建て替えの為「旬彩じらいや」は、しばらくの間休業致します。
※2026年10月、ビルに掲示されたお知らせより
ビルは1978年築で、今年で48年。
1981年より前の耐震基準でつくられたいわゆる旧耐震の建物です。
お知らせには「建て替え」の文字がありますが
この場所に何ができるのかは持ち主から公表されていません。
続報があれば追記致します。
橋の下の池から、観光バスの駐車場へ。
そして空港の開港とともに建った駅前の雑居ビルへ。
参詣の時代、観光バスの時代、空港景気の時代を見てきたこの場所は、
また次の姿に変わろうとしているのかもしれません。



見慣れた景色も、建て替えが始まればあっという間に変わってしまいます。消えてしまうと分かっているからこそ今ある景色を大切にしたいですね。当時のお店のエピソードがあればぜひ教えてください。
まとめ|90年前の近道の名前が残るビル
以上が、開運ビルとその名前の由来になります。
90年前、成田駅前の食堂の主人が、窪地に自分のお金で橋を架けて近道をつくった。
橋の下には川魚を泳がせる池があった。
池は埋め立てられてバスの駐車場になり、谷の底には道路が通り、道路に面してビルが建った。
その間に土地の持ち主は何度も変わり、橋も二度架け替えられました。
それでも「開運」という名前だけは、橋とビルに残り続けています。
今回私も調べるまで、この駐車場の位置に池があったなんて想像したこともありませんでした。
いつかこのビルがなくなってもこの場所に開運橋と開運食堂があった事実をこの記事で残したいと思います。
成田の変化をこれからも一次記録として残せれば幸いです。
本日もありがとうございました。
駅前の歴史については、こちらの記事もぜひご一読ください。




参考資料
| 種別 | 資料 |
|---|---|
| 登記 | 不動産登記事項証明書(花崎町736番51の土地・建物、736番49の建物、736番56の土地)、閉鎖登記簿(736番29の土地、736番51の建物)、成田観光自動車株式会社の閉鎖登記簿(会社の登記)、建物図面・各階平面図(736番51)、地積測量図(736番29、1972年)、旧公図(閉鎖地図) |
| 写真集 | 成田の郷土写真集(「19 開運橋」「38 開運食堂養魚場」)、写真集「開運橋・花崎町」のページ(1980年代) |
| 名鑑 | 戦前の人物名鑑(成田町の項)、バス事業者の名鑑(成田観光自動車の項) |
| 住宅地図 | 成田市の住宅地図(1980年代ごろの数版、成田市立図書館で閲覧) |
| 空中写真 | 国土地理院撮影の空中写真(1974年・1979年撮影) |
| 地形 | 地理院地図(断面図) |

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